BERLIN HANCHIKA nikki

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ベルリンに住んでからのあれこれ。

人生は短編小説 仕事の選び方、向き合い方

 最近、語学学校で読んだ記事がとっても素敵だったのでシェアしてみます。テーマは仕事の選び方、そして向き合い方。

www.stern.de

 

全体をまとめるとこんな感じ。

情熱を持てる仕事をしなさい、っていう言葉。よく言われるけど、本当にそれって正しいの?自分が本当に情熱が持てる仕事、それでいて心の底から楽しい、つまり「夢の仕事」を見つけることが正義、ほんとうに?

実は、約半数の若者は自分のしたい仕事が全くわからない。思春期あたりから親に「そろそろ将来について真剣に考えなさい」と言われたり、でもそんなこと言われたって、雲の上の城を建設するみたいに、曖昧な仕事像しか描けない。(その位の年頃で知っている仕事の種類なんてたかが知れている)

自分に合った仕事というのは、自分の庭を育てるように、段階的にゆっくりと様々な経験を重ねながら見つけていくものだ。自分でも予想しなかった仕事で成功したり、全く新しい自分を発見する可能性だってある。

自分の「夢の仕事」を見つけるため、1年間に30回のインターンシップに参加したある女性は、「夢の仕事」なんて存在しないことがわかった、と語る。彼女が学んだことは、ひとは様々な仕事を選択する可能性があるということ、そしてどの仕事が自分を満たすかは時間の経過によって変わりうるということ。

人は自分の人生を一貫したストーリーに仕立て上げたいという願望を持っている、とある研究者は解説する。すべての出来事は繋がる、繋げたい、繋がっているはずだと信じたがる。でも実際には現在自分のしている仕事は3年前と全く違っていたり、もしかしたら過去の経験や知識も全く役に立っていないかもしれない。でも、それでいいんだ。人生を綺麗なストーリーに仕上げる必要はない。一貫性はないかもしれないが、面白い、より良い人生を目指す方がよっぽどいい。

だから、人生は短編小説のコレクションなんだ。明日の自分は、もしかしたら今日の自分とは違うかもしれない。考え方だって変わるかもしれない。したいことだって、変わるかもしれない。でも、大丈夫。人生は長く厳しいロングストーリーではなくて、短編小説のコレクションなんだから、全体で一つのハーモニーを奏でる必要さえないんだから。

 

 

わたしも確かに自分のこれまでの人生を長編小説に仕上げようとしてきた節がある。全部の点と点を繋げたいし、今していること、過去にしたこと、辛かったことも含めてなにか将来の糧になるか、繋がってるかしてないと、やっぱり自分を納得させられない。

 

でも、綺麗なストーリーラインを描いてみても、なかなかうまく行かないものかもしれず。むしろ、今の私は「何でもできる私/何でも選択できる私/何でも捨てて良い私」であるはずなのに、無理に過去の点とつながる点を探したりしてるのかもしれない。自分の選択の自由を狭めているのは、自分自身なのかもしれない。

とか言ってる私自身がこの考え方をちゃんと体現出来ているのかといえば、全くそうじゃない。

現状真っ白なら真っ白なりに、私の庭にはたくさんスペースがあるということで、植えたい植物もたくさんあるし、いろんな育て方試してみたいし。まずはちょっと耕すだけでもいいんだから。そう考えてみると、ちょっと楽になったり。

生産性で人間の価値が図られる社会。その社会に貢献したい、わたしたち。

政権放送を最後まで真剣に聞いたのは初めてだった。山本太郎の政権放送、すんごく良かった。感動しちゃったかもしれない。彼の日本社会の捉え方は完全に私と一致していて、彼は最近特によく言われている「生きづらさ」を初めてちゃんと言語化できているように聞こえた。

あなたは自分が生きていても許される存在だと、胸を張って言えますか。あなたは自分がただ生きているだけで価値がある存在だと、心から思えますか。あなたは困っている時に、助けてほしいと声を上げられますか。

この問いに全て言える、思える、できると答えられた人はどれくらいいますか。そう多くはないと考えます。なぜなら、あなたに何ができるんですか、あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気、社会に蔓延しているからです。

だから、そんな社会を、政治を変えたいんです。生きててよかった。そう思える国にしたい。それは無理だと思いますか。私は思いません。

 

過労やうつが蔓延するような、こんな社会自体に責任があるのに、わたしはそれでもその「社会」に貢献するために、また働くことを通じてしか、わたしはわたしに満足できないのか。そもそも、働いてないひと、生産しないひとには、価値がないのか?いや、絶対違う。

 

あなたに何ができるんですか、あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気か社会に蔓延している。物心ついたときから、ずっとそうだったはず。

 

生産性で人間の価値が図られる社会、それが現在です。これが加速すれば、命を選別する社会がやってくる。医療費を口実に、生産性を言い訳に、人間の生きる価値を、期間を、一方的に判断される時代がもうすぐそこまで迫っている。

 

生産性で人間の価値を測るという価値観、これは障害者だけじゃなくて、すべてのひとに適応されているんじゃないだろうか。人間は機械じゃない。一人ひとり違う個性があって、考え方があって、生きているだけで価値がある。そのはずだよね?そうだったはずだよね。

過去に何を生産したか、いま何を生産しているか、そして未来でなにを生産したいのか?こんなことばかり、ずっとわたしたちはこう問われ続けてきた。もしかしたら、学生時代も、将来の生産のために勉強をしてきたのかもしれない、させられてきたというか。

価値やモノを生産するというのは、言い換えれば、社会に「活用される」とも言える。そして、自分のなかでも強く「活用されたい」と願ってしまっている。何でだろう。

 

ふんわりした社会の雰囲気とか、価値観というのは、言語化されて初めて目に見えるようになったりする。女性が何故か常にサポート役に回ることが期待されている、そんな当たり前すぎた雰囲気に「女性蔑視」という言葉が与えられて初めて、当事者のひとりであるわたしも「あれは女性蔑視というんだ、わたしは何も悪くなかったんだ。そうする必要さえなかったのに、社会にそうさせられていたんだ。」って思うことができるように。

 

答えが出たからこの文章を書いてるんじゃなくて、わたしも答えがわからないから、文章に書くしかない。わたしたちは何故こんなにも何かを生産したいのか、わたしを活用されたいのか。もし、それが社会の要請に答える為だとしたら、社会に評価されたいという欲から生じるんだったら、仮にこの社会が全く別の社会に変わったとして、わたしたちはそこで初めて自分の現状に満足できるんだろうか。

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わたしの力は わたしのために

人にはひとりひとり、力が与えられていたとして、そして時間も与えられているとして、それを何に使えばいいんだろう。

そう思ったとき、その力を社会のためとか、会社のためとか、お客さんのためとか、上司のためとかじゃなくて、一切を自分のためにつかえば良いと思えたら、ちょっと楽になれた。自分のためというのは、自分と周りの大切な人の幸福のためということ。周りの人が喜んでくれると私も幸せ。

つまり、自分の時間と力を自分の幸せのためにだけ全力投入。闇雲に、気持ちに駆られるんじゃなくて、今ある「時間」とわたしが自分と誰かのために使える「精神力」と「体力」があることに感謝して、自分の気持ちに素直に従いながら、自分の幸福に従事。様々なことに終始使用されていた私の時間と気力と体力を、いまは自分と自分の大切な人の幸福のためだけに使えばいい。たぶんそうしていれば、自然と景色が開けてくる、はず。

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ベルリンの物乞いについて思うこと 

ベルリンにはBettler(物乞い)がとっても多い。

ドイツの物乞いは本当にお金や食べ物を乞うている、文字通りの物乞い。街に出て、電車で移動30分、乗り換え2回もすれば一日に2-3回は彼らに会うことになる。日本から来るとその存在と彼らのアピール力(後述)に驚くけど、ドイツの他の都市と比較してもベルリンにおけるBettlerの存在感は突出しているきがする。存在感がすごい。

まず、よく会うのが人通りの多いメインストリート。特に銀行やスーパーなど「人が集まるかつ、財布を開く場所」の入口。駅の入り口の観音開きのドアを押さえる人も。

ただ座って、お金を受け皿として紙コップを置くだけの「受け身」のひともいる。他のドイツの都市でもこのようなスタイルは見かけるけども、ここベルリンでは少数派。逆にすごく積極的でどんどんアピールしてくる人が多い。

まずよく見るのが、紙コップを持って様々な通行人に話しかける人。大抵ちょっと話しかけ方が雑なので、あまり成功していなかったり。駅や電車内もBettlerによく遭遇するスポット。電車に乗っていてGuten Tag! と演説を始めるひとびと。みんな様々に工夫を凝らしたり、凝らさなかったりしている。

身体障害のある人も多い。手足の一部に障害がある、切断した人、大きな火傷を負っているように見える人など。地面に座りながら、今にも泣きそうな表情で道行く人に手を合わせているひともいる。

そんな街ベルリンにはビッグイシューのような新聞があって、これをたまに買ったりしている。

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どんな世界、どんなベルリンに我々は住みたいのか?共に考えよう


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『健康とは何か?』

 

もちろんドイツにも公的な支援があるわけで、でもきっと複雑な事情だってある。わたしの決して知り得ないところで。

 

みっともない?公共の場の下着と、ガガ様の新トレンド

ドイツでたまに慣れないことがあって、どうしようもなく悶々とするとき、この概念はこの国には(もしかしたら日本以外には)無いかもしれないという結論に至ることが多々あって。

前々から気づいてたけど、最近暑いから尚更だけど、ブラジャーが見えてる女性が多いこと。ひもがちらっと見えているのは普通で、下着の6割くらいあらわになってる人もちらほらお見かけする。

今週末は暑かったからタンクトップが人気。でもタンクトップから見えないようにするとか、響かない下着を選ぶとか、その類の考え方はもしかしたら、無い。

だんだん悶々としてきた。下着が見えないようにするのは日本のマナー?本人は恥ずかしくない?みんな、何とも思わないのかしら。。。

よくよく考えてみたみると、彼らは直接的に誰にも迷惑を掛けてはいない。そもそも、これは女性だけの問題なのか?私は腰パンしている若い男性を見ても、なんかもやもやするとか、みっともないとか、特に思わない。これもちょっと不平等である。

セレブの世界では、私が敬愛するLady Gagaや新生パリジェンヌであるJanne Damasはフリーニップル主義者で、今やそれ一種のトレンドらしい。ブラ紐が見えるより格段に由々しき問題なはずなのに、彼らの写真のおしゃれさからか、このスタイルもだんだんとオシャレに思えてくるような。

ひとまずの結論としては、私もこの社会では「みっともない」わたしでいることが許されるので、それを謳歌してみるのもアリかな、でもやっぱナシかな。自分が自由でいるためには、他の人の自由も許さなくちゃいけない。MOTTAINAIが結構前にブームになったけど、MITTOMONAIもなかなか日本的な価値観。自分の中に小さな日本があるのを、こうやってたまに発見したり。

 

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Photo by Pablo Heimplatz on Unsplash