BERLIN HANCHIKA nikki

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ベルリンに住んでからのあれこれ。

生産性で人間の価値が図られる社会。その社会に貢献したい、わたしたち。

政権放送を最後まで真剣に聞いたのは初めてだった。山本太郎の政権放送、すんごく良かった。感動しちゃったかもしれない。彼の日本社会の捉え方は完全に私と一致していて、彼は最近特によく言われている「生きづらさ」を初めてちゃんと言語化できているように聞こえた。

あなたは自分が生きていても許される存在だと、胸を張って言えますか。あなたは自分がただ生きているだけで価値がある存在だと、心から思えますか。あなたは困っている時に、助けてほしいと声を上げられますか。

この問いに全て言える、思える、できると答えられた人はどれくらいいますか。そう多くはないと考えます。なぜなら、あなたに何ができるんですか、あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気、社会に蔓延しているからです。

だから、そんな社会を、政治を変えたいんです。生きててよかった。そう思える国にしたい。それは無理だと思いますか。私は思いません。

 

過労やうつが蔓延するような、こんな社会自体に責任があるのに、わたしはそれでもその「社会」に貢献するために、また働くことを通じてしか、わたしはわたしに満足できないのか。そもそも、働いてないひと、生産しないひとには、価値がないのか?いや、絶対違う。

 

あなたに何ができるんですか、あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気か社会に蔓延している。物心ついたときから、ずっとそうだったはず。

 

生産性で人間の価値が図られる社会、それが現在です。これが加速すれば、命を選別する社会がやってくる。医療費を口実に、生産性を言い訳に、人間の生きる価値を、期間を、一方的に判断される時代がもうすぐそこまで迫っている。

 

生産性で人間の価値を測るという価値観、これは障害者だけじゃなくて、すべてのひとに適応されているんじゃないだろうか。人間は機械じゃない。一人ひとり違う個性があって、考え方があって、生きているだけで価値がある。そのはずだよね?そうだったはずだよね。

過去に何を生産したか、いま何を生産しているか、そして未来でなにを生産したいのか?こんなことばかり、ずっとわたしたちはこう問われ続けてきた。もしかしたら、学生時代も、将来の生産のために勉強をしてきたのかもしれない、させられてきたというか。

価値やモノを生産するというのは、言い換えれば、社会に「活用される」とも言える。そして、自分のなかでも強く「活用されたい」と願ってしまっている。何でだろう。

 

ふんわりした社会の雰囲気とか、価値観というのは、言語化されて初めて目に見えるようになったりする。女性が何故か常にサポート役に回ることが期待されている、そんな当たり前すぎた雰囲気に「女性蔑視」という言葉が与えられて初めて、当事者のひとりであるわたしも「あれは女性蔑視というんだ、わたしは何も悪くなかったんだ。そうする必要さえなかったのに、社会にそうさせられていたんだ。」って思うことができるように。

 

答えが出たからこの文章を書いてるんじゃなくて、わたしも答えがわからないから、文章に書くしかない。わたしたちは何故こんなにも何かを生産したいのか、わたしを活用されたいのか。もし、それが社会の要請に答える為だとしたら、社会に評価されたいという欲から生じるんだったら、仮にこの社会が全く別の社会に変わったとして、わたしたちはそこで初めて自分の現状に満足できるんだろうか。

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