Berlinからの報告

キリストが生まれて既に2000年以上が経ったのに私達はまだ小さなことで悩んだり人と比べて落ち込んだり羨んだりしている。私達は歴史の中の小さな点に過ぎないけども、でも確かに存在する。自分を誇れる有意義な点でいたい。

生産性で人間の価値が図られる社会とその社会に貢献したい私達

政権放送を最後まで真剣に聞いたのは初めてだった。というか、今までしっかり見たこともなかったし(NHKをつけて偶然放送されていても、大体は開始10秒くらいで見続ける意欲が削がれる)、それは選挙権を得る前も、得てからも、全く自分の参考になるものではなかった。スタジオセットも古臭いし、言ってることも胡散臭いような。


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打って変わって、この前の山本太郎の政権放送、すんごく良かった。感動しちゃったかもしれない。彼の日本社会の捉え方は完全に私と一致していて、彼は最近特によく言われている「生きづらさ」を初めてちゃんと言語化できているように聞こえた。

以下、冒頭から抜粋する。

 

あなたは自分が生きていても許される存在だと、胸を張って言えますか。あなたは自分がただ生きているだけで価値がある存在だと、心から思えますか。あなたは困っている時に、助けてほしいと声を上げられますか。

山本太郎からのこの問いに全て言える、思える、できると答えられた人はどれくらいいますか。そう多くはないと考えます。なぜなら、あなたに何ができるんですか、あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気、社会に蔓延しているからです。

だから、そんな社会を、政治を変えたいんです。生きててよかった。そう思える国にしたい。それは無理だと思いますか。私は思いません。

 

前も書いたことだけど、私は会社を辞めてから「なんも生産してないじゃん」「生み出してないじゃん」「存在してるだけじゃん」というような気持ちにふと駆られることがある。じゃあ、バイトでもなんでも、働き始めたら(仕事を通して、「社会」の役に立ったなら)この気持ちは解消されるのか。でもそれって根本的解決ではないような。

 

わたしに問題があるというか、私が悪いのか?過労やうつが蔓延するような、こんな社会自体に責任があるのに、わたしはそれでもその「社会」に貢献するために、また働くことを通じてしか、わたしはわたしに満足できないのか。そもそも、働いてないひと、生産しないひとには、価値がないのか?いや、絶対違う。

 

あなたに何ができるんですか、あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気か社会に蔓延している。これだ、と思った。そうだ、物心ついたときから確実にその類の空気はあったように思う。

 

生産性で人間の価値が図られる社会、それが現在です。これが加速すれば、命を選別する社会がやってくる。医療費を口実に、生産性を言い訳に、人間の生きる価値を、期間を、一方的に判断される時代がもうすぐそこまで迫っている。

これは、結果的に晴れて当選を果たした同党のALSの舩後靖彦さんと、全身にまひを持つ木村英子さんを念頭に、障害者施策が障害者を抜きにして決まる政治の現状について説明する箇所。

 

生産性で人間の価値を測るという価値観、これは障害者だけじゃなくて、すべてのひとに適応されているんじゃないだろうか。人間は機械じゃない。一人ひとり違う個性があって、考え方があって、生きているだけで価値がある。そのはずだよね?そうだったはずだよね。

 

過去に何を生産したか、いま何を生産しているか、そして未来でなにを生産したいのか?こんなことばかり、少なくとも就活からずっとわたしはこう問われ続けてきた。もしかしたら、学生時代も、将来の生産のために勉強をしてきたのかもしれない、させられてきたというか。

 

価値やモノを生産するというのは、言い換えれば、社会に「活用される」とも言えると思う。「女性の活用」とか、言われてるようにね(何回聞いても変な言葉)。

 

故にわたしは活用されてない女性ともいえる。そして、自分のなかでも強く「活用されたい」と願ってしまっている。何でだろう。

 

ふんわりした社会の雰囲気とか、価値観というのは、言語化されて初めて目に見えるようになったりすると思う。女性が何故か常にサポート役に回ることが期待されている、そんな当たり前すぎた雰囲気に「女性蔑視」という言葉が与えられて初めて、当事者のひとりであるわたしも「あれは女性蔑視というんだ、わたしは何も悪くなかったんだ。そうする必要さえなかったのに、社会にそうさせられていたんだ。」って思うことができる。

 

答えが出たからこの文章を書いてるんじゃなくて、わたしも答えがわからないから、文章に書くしかない。わたしは何故こんなにも何かを生産したいのか、わたしを活用されたいのか。もし、それが社会の要請に答える為だとしたら、社会に評価されたいという欲から生じるんだったら、仮にこの社会が全く別の社会に変わったとして、わたしはそこで初めて自分の現状に満足できるんだろうか。